ほたるの里「丁(ようろ)」福井県大野市/蛍・ホタル

ほたるの里 丁(ようろ)の文化

丁(ようろ)の由来

昔、昔、お嶽山(飯降(いふり)山のこと)の山上で、美人の尼さんが、三人、姉妹同様仲よく修行を積んでいたそうです。この三人の尼さんの、仏道への熱心な修業、精進ぶりに、天の神様が毎日、三度三度、三箇の大きなおにぎりを降らして下さったということです。

このことから、この山を「飯降山」と呼び、麓の村を飯降村と、呼ぶようになったのだそうです。

ところが、ある時のこと、三人の意見が、幾度話し合ってもくいちがって、そのことがもとで、一緒に暮らすことにひびが入り、毎日の修行にも差しつかえが出るようになりました。そうするうちに、どうしたことか、ピタリと天からおにぎりが降らなくなり、三人は飢えと、寒さに耐えられなくなって、よろよろとよろけながら、山を降りることになりました。

途中の急な坂では、三人が三人とも、ころころと転んで、すべり落ちたという場所が、今でもあります。「尼転ばし」と呼ばれる坂がそれです。 大へんな苦労をしながら、三人の尼僧は手足をすりむいて、血だらけになり、膝頭やお尻を思いきり木や岩角に打ちつけて、着ていた着物がさけたり、破られて、ぼろぼろになって、空腹と疲労で、よろよろと倒れんばかりに杖にすがって、お嶽山の北の方へ下山してきたのでした。

丁(ようろ)の由来この麓の地名が「丁(ようろ)」といわれるのは、この三人の尼僧が、T形の杖をつき、よろよろ、よろよろ、よろよろと、よろめきながら降りついてきた土地だからだという言い伝えがあります。 そして、一番年上の尼僧が上丁に、次の尼僧が中丁に、一番若い尼僧が下丁に、それぞれ住みついて、上・中・下の丁の村の御先祖様になられたそうです。
三人の尼様は、下山してきてからはまた仲よくなって、行き来はされていたらしいのですが、三人一しょに仲よく住むことは、もうなかったということです。

戌山城址

戌山城は、室町時代に幕府の重臣(管領)斯波氏の一族によって築かれ、織田信長の武将金森長近が亀山山頂に大野城を築くまで、越前美濃国境間の要として重視されていました。
途中、斯波氏の内紛を気に朝倉氏の居城となりましたが、それは、三代目城主持種の子である斯波義敏と斯波義廉との家督争いが発端となっており、応仁の乱の一因となったともいわれています。
主郭のある山頂から大野盆地が一望に見渡せ、郭群・堀切・竪堀などの遺構も確認できます。
登山口横にある「みくら清水」は、山頂の兵が日に三度飲料水を汲みに来た、という言い伝えでこの名がついています。

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少昆古(すくなひこな)神社 春の祭礼

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